真珠パールエッセイ・私の真珠物語
 

母の日に    高尾 初美

 娘は九歳の時に父親を亡くした。まだまだ父親の愛情が必要な年齢である。
 振り返ると二十五年前の五月の春の嵐が、吹き荒れた日であった。
 職場から夫が倒れたとの連絡を受け、取るものも取らず、すぐに夫が搬送されたおいう病院へ駆けつけた。夫は脳卒中で意識不明の重体で、その日の夜に黄泉の国へと旅立ってしまった。あまりの急な夫の死に、私はただ呆然と立ちつくしたが、窓を打つ強い雨が尚一層、衝撃を大きくした。慌しい中通夜をして告別式を終えふと我に返ると、娘と私の二人だけが残され寂寞感が込み上げてきた。だが悲嘆にくれてばかりはいられなかった。心の痛手が癒える間もなく、明日からの母と子の暮らし向きを、考えなければならない。私はある食品会社にパートとして働き始めた。
 この会社は日曜出勤やお正月の三ヶ日の間の出勤もあり、特に元旦の出勤は母と子にとっては、とても厳しいものであった。
 お正月と言えば家族中が顔を合わせ、新年の祝いの膳を囲み、年頭の挨拶を交わすのが日本の習わしである。私は仕事とは言え、心を鬼にして年端の行かない娘を残し、仕事先へと向かった。娘は私が支度したお雑煮をたった一人で食べなければならない。その姿を思うと切なくて不憫で、胸が詰まる思いであった。この時私は心の中で誓った。こんなに辛い思いをするのなら、もう今日限りで辞めよう。そうすれば娘に寂しい思いをさせずに済む。そう強く決心をした。けれど次の瞬間私自身に問いかける自分がいた。
 辞めてどうするの。今辞めてしまったら二人の生活はどうなるの。数分前に決心したばかりの気持ちは、いつのまにか後戻りをしていた。この時娘もきっと泣いていた事だろう。
 こうして様々な試練に揉まれながら、二年程の月日が経ち、これなら母と子二人が、どうやら食べていける、そう目処がついた矢先の事。今度は母である私が病に倒れ、六ヶ月もの長期間の入院生活を、余儀なくされた。そしてあげくには手術の後遺症で、体に障害を持つ身となり、右足が麻痺をし歩行不能となってしまった。私にとっても娘にしても、二度目の試練である。
 何故こうまで立て続けに、不幸が襲ってくるのだろうか。自分と娘の不運さを嘆いた。
 そんな失意の底に立たされている時、娘が私に言ってくれた言葉がある。「お母さんは足が悪くなって大変だと思うよ。でも私がお母さんの足の悪い分、何でもお手伝いするから、二人で頑張ろう」娘のこの一言で、はっと目が覚める思いであった。
 小学校の卒業式も、中学校の入学式にも出席してやれなかった。それなのに、不満一つ言わず、私に力を貸してくれるという娘。小さい頃から寂しい思いや、苦労をかけてきた娘が、いつのまにか親を労り、励ましの気持ちを育んでいたとは。
 娘の言葉を励みにし、諦めかけていた足のリハビリに通うようになった。けれど努力の甲斐もなく、一向に改善の兆しはなく、断念せざるを得なかった。
 二度あることは三度あるなどの迷信めいた言い伝えに惑わされ、娘への災難を不安に思っていたが、大きな問題もなく二十五年の歳月が過ぎて行った。
 今娘は良き伴侶に恵まれ、私とは別な所で結婚生活を営んでいるが、体が不自由で一人暮らしの私を気遣い、時間の許す限り訪ねてきては、私には出来ない用件を済ませてくれている。それはこれ迄の人生の中で、今が一番穏やかで平和な時かも知れないなどと、安堵感に浸っていた今年の母の日であった。娘から思わぬ贈りものがあった。
「お母さん、ちょっと手を出してみて」と娘が言う。なんでと怪訝に思い、このところめっきり皺が増えた手を差し出した私。娘は何やら小さい包みを開き始めたが、その小箱にはパールの指輪が、厳かに納まっていた。
「お母さん、体が不自由なのに、私をよくここ迄育て見守ってくれたね。本当にありがとう。この指輪は日頃の感謝の気持ちだよ」娘は照れ臭そうに言った。
 話は雑談風に続いた。「お母さんはいつも、自分には指輪やネックレスは似合わないと言って、一切身に付ける事がなかったよね。でも本当は女だから一度は欲しいと思ったでしょう?」私は心地よく聞いていた。
 これ迄には苦しくて辛い日々もあったが、今はゆっくりと時が流れ、幸せな一日一日を過ごしている。それも娘の心の支えがあるからこそと心から思う。
 今私のくすり指には、母の日に娘が気持ちを込めてプレゼントしてくれたパールの指輪が、上品な光を放ち納まっている。


(「パール・エッセイ集」の作品より)



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