真珠パールエッセイ・私の真珠物語
 

ピンクパール  渡辺まさ子

  「これ、マーちゃんにあげる」、優しい声がして、何か小さなものが私の掌にころんとのりました。それは淡いピンク色のイヤリングでした。
  高校を卒業したばかりの私は地元の信用金庫に就職して、京葉工業地帯の工場群を抱える街の小さな支店に配属されました。着任早々、お客様から誘われて、地元の有志が集う俳句サークルに加わりました。会員のほとんどは父母か祖父母世代の方々で、稚い私はひとりっ子のような待遇を受けていました。
  それは、ある日曜日の吟行句会でのことでした。サークル結成時からの会員の一人で、私とはひとまわりほどしか離れていないお姉さんのような女性から、突然イヤリングを一個プレゼントされたのです。
  お姉さんは鍼灸医です。生まれつき足が少し悪く、片方の足を引きずって歩きます。しかし、吟行には積極的に参加し、仲間に遅れることは決してありませんでした。色白で、ほっそりとしていて美しく、いつも和服を着ていました。少女雑誌に登場するお姫様のような方でした。私は憧れの人からの思いがけないプレゼント、お姉さんの分身をいただいて、飛び上がって喜びました。「今のマーちゃんにぴったりよ。いただいたものだけど、片方なくしちゃったの。指輪かネックレスに作り直したらいいわ」と、お姉さんはさりげなく言葉を添えて微笑みました。
 アクセサリーなどには全く縁のない、安月給の身には、とにかく嬉しくって、暫くは毎日掌に乗せては飽きずに眺めていました。
 それから二年後、親友の結婚式に招かれた折り、私は思い出して、わずかばかりの貯金をはたき、イヤリングのピンクパールをプラチナ台の指輪に加工し、それをつけて結婚式に出席しました。このことをお姉さんに報告するでもなく、お礼の一つも言わず月日は流れ、私は本店勤務となり、やがて結婚を機に退職しました。俳句は同人誌への投句のみとなり、私を可愛がって下さった方々とは、誌上で句を拝見するだけとなっていきました。そんなある日、届いたばかりの同人誌の巻末の訃報欄に目をやって、息をのみました。『二月十六日午後七時、不慮の事故にてご逝去。享年四十二歳。謹んで…』お姉さんがなくなったのです。活字がみるみるぼやけていきます。手が震え、身体は凍りつきました。次の日、「とにかくお姉さんのことが聞きたい」、そんな思いで旧任地へ駆け付けました。
 医院は養子縁組をされたという方が継がれ、多くの患者さんが訪れていました。若い夫婦は歓待して下さり、仏間に案内して下さいました。線香をと仏壇に進んだとき、「あっ、これ!」、私は思わず声を上げてしまいました。位牌の前にイヤリングが一個、それはかつて私がいただいたのと同じ淡いピンク色したイヤリングです。お姉さんはたしか、片方はなくしたと言っていました。「母の遺品です。いつも帯の間に入れていました。時々、手にとって眺めたりもしていました」「なにか思い出深いもののようでしたので棺には入れませんでした」と二人が言葉を繋ぎながら、お姉さんが私にして下さったように、息子さんが私の掌にイヤリングをのせて下さいました。私も、お姉さんに見せようと持ってきたパールリングをバッグから取り出し、その思い出を話しました。この様子をお姉さんは顔いっぱいに笑みを浮かべて見ていました。
 生涯独身だったというお姉さん。御両親を早くに亡くされ、姉妹もなく、いくつかあった演壇も障害があるとかでまとまらなかったこと等々、「母はきっと、家族が欲しかったんです。今、改めて分かりました」と息子さんは言葉を詰まらせながら、「もしご迷惑でなければ、このイヤリングを持っていて欲しい」とも言って下さいました。熱いものが私の中に込み上げていきました。お姉さんの寂しさを稚い私は全く気付かず、長い無沙汰を今、詫びていました。
 十数年の時を経て再び巡り逢った二個のピンクパール。お姉さんのパールが、w足しのパールを呼び寄せてくれました。待っていてくれました。ろうそくの灯りの中で二個のピンクパールは、ほのかに紅をひき、美しく輝いています。
 それから十年、「来年の春、息子が結婚します。お姉さんも出席してくださいね」きょうは大安吉日、お姉さんに招待状を書きました。


(「パール・エッセイ集」の作品より)



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