真珠パールエッセイ・私の真珠物語
 

真珠の引力  松川千鶴子

 凍りつくような二月の深夜、夫は自分が乗っていた自転車からこけ落ちるほど泥酔していた。高血圧の薬を飲んでいるため、酔いが早い。その上、悪酔いする。帰宅するなり鍵を失くしたと、シャッターをガンガン叩く始末。慣れているとは言え、うんざりしている。人一倍働き者で、真面目で子煩悩。娘二人の面倒も良く見てくれ本当にいい人なのに、酒が入ると、人が変わる……。
  その夜も、またかと思いながらシャッターを開けた。ふらつく足で入って来た夫は、店の中に入れている車の運転席で寝てしまった。そのまま放っておいたら風邪を引いてしまう。「二階に上がって、布団の中で寝んと風邪引くで。」私は、毎度の事、放っておいてやろうかと思ったが、どうせ翌朝は頭が痛いだの、しんどいだの、風邪引いただの聞かされる。そう思うと、やっぱり今、寝床に連れて行く方がいいと思い直し、「ほらほら、起きて。」大きな夫の腕を取り、何度も引っ張った。夫はびくともしない。私は両手で力を込めた。やっと夫は薄目を開け、こっちを見た。
  「あんた、誰?」
  えっ!?あんた誰て……。
  ゴツンと鼻を殴られたような衝撃だった。酔っているからと言って三十年連れ添った女房の顔を忘れている。私の存在って……。悔しいし、悲しい。来月三月十二日は結婚記念日、それも三十周年。まさか、結婚三十年目にしてこんな仕打ちをされるとは。もう我慢にも限界が来た。結婚十五年、二十五年、それぞれの節目にもお祝いなんて何もしてこなかった。夫と二人で営んでいる飲食店の借金返済に追われ、それどころではなかった。ようやく娘たちも独立、スタート地点に戻ってこれか……。身体の力がすーっと抜けていった。
  もう、どうでもいい。
  私は、夫をそのまま放ったらかし寝床に戻った。身体は冷え切り、それ以上に心は冷え切ってしまった。あまりのショックで、涙も出ない。はっきり私の目を見て、「あんた、誰?」夫の顔が目に刻印されたように蘇える。もう、分った。離婚や。逆にすっきりして離婚できる。私は自分に言い聞かせた。今まで何度離婚しようと思った事か。結婚して三十年夫婦喧嘩ばかり、皿や茶碗が飛び交う喧嘩ならまだしも、暴力だって日常茶飯事、その度、謝る夫。借金や娘たちの事を考えて、私も思い直す。これの繰り返しだった。今は借金も完済、自由の身だ。私は朝を待って、直ぐに役所に離婚届を貰いに行った。帰って来ると、夫は呑気に店の仕込を始めていた。私は、「私の気持ちも知らんとからに!」叫んだ。「これに名前書いて、判押して。」「何?いきなり。」「あんた覚えてないんか。」夫は、全然覚えていなかった。「朝、気が付いたら
身体中痛いし、あちこち擦りむいとるし、何でか、車の中で寝とったみたいや。」と、涼しい顔でその擦りむいた傷を見せて、同情を買おうとする。私は、爆発した。「結婚三十年経って、『あんた、誰?』と言われるとは、夢にも思わんかった!」きょとんとしている夫に昨夜の事を話した。
  「俺、そんな事言う訳ないやろ。言うた覚えは無い。」「酔っ払ってたからでは済まへん。結婚三十周年祝に今流行の熟年離婚や。店も開店三十周年記念で閉店や。」実際、店をするために結婚したようなものだった。
  「記憶に無い事を謝っても意味が無い。」
  「屁理屈ばっかり。どうせ、あんたにとって結婚なんて、そんな物やってん。結婚指輪も二十年前に失くしてるし。」「失くしたんと違う。どっか行ったんや。」「それを失くしたって言うんや。指輪が勝手にどっか行く訳ないやろ。足でも生えとるんか。」罪の無い顔をして言い訳がましい事を言う夫を見ていると、よけい腹が立った。それから何時間も話し合い、夫は離婚届に判を押した。私は長女に電話し荷物をまとめ、一階に下りた。シャッターが閉まったままの真っ暗な店内。夫の気配が無いと思っていたら、車の中で俯いている。「これだけ、持って行ってくれるか。」暗闇で俯いたままの夫から、箱を手渡された。「何?暗いから分らん。」夫は車内灯を点けた。私は電車の時間を気にしながら、面倒臭く無造作に開けた。うん?指輪ケース…開けると見た事も無い綺麗な真珠の指輪が暗闇の中で浮き上がった。まるで深海で月がぽっかり姿を現したような真珠だ。「結婚三十年は、真珠婚やって。」私は、全く知らなかった。「来月渡そうと思ってたけど…」夫の目に涙があった。今まで一度も指輪なんで貰った事が無かった。「…これ貰ったら未練が残るから。」私は、車にそれを置いて外へ出た。既に外は暗くなり、雪まで降っていた。タクシーも見当たらず、駅まで歩いていると、何となく、引き戻されそうな強い力が働く。月の引力?それとも真珠の引力?自分でも分らずじまいで、戻っていた。それから一年、今私の左薬指には夫の涙色の真珠が微笑んでいる。


(「パール・エッセイ集」の作品より)



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