真珠パールエッセイ・私の真珠物語
 

母の真珠の首飾り  鈴木篤子


 夏が来ると、必ず思い出す光景がある。
  小学校四年生の私と五歳の弟、そして母が汽車に乗っているのだ。直角座席の背もたれは堅くて高く、窓の外を走る山の緑と海の青が、夏の太陽を受けてキラキラとまぶしかった。生まれ故郷の新居浜から、高松へ向かう汽車の中だったと思う。いや、もしかすると岡山から京都への汽車かもしれない。どちらにしても、当時単身で、名古屋へ出稼ぎに来ていた父に会うための旅であったことだけは確かだ。
  母は今の私よりははるかに若く、美しかった。その日の母は、自分で縫ったレースのワンピースを着て、パールのネックレスをしていた。どうしてそんなことを鮮明に覚えているのかというと、私にとっては生まれて初めて見る、“着飾った母”と“アクセサリー”だったからだ。
  田舎で暮らしていると、装飾品には縁がない。縁がないばかりか、ちょっとオシャレをしても、口さがない人々のせんさくの的になった。それは夫の留守を守る若い嫁に対しては、近所の目がことさら厳しくなる土地柄だったせいかもしれない。
  母はドレスメーキングの師範科を卒業していた。内職で人には最新モードの服を仕立てていたのに、自分の服はいつも質素で地味な物ばかりだった。だからその日の、見違えるような母の装いは、子供心にも晴れやかで誇らしかった。
  暑い盛りの汽車は、木枠の窓を上に持ち上げ全開にしていなければ涼がとれない。しかしトンネルに入った時は、すぐさま窓を下ろし、じっと暑さを我慢しなければならなかった。そうしなければ、車内に入ってくる煙と煤で、悲惨な状況になるからだ。
  私たちは向かい合わせの席に座っていたが、夏休みで混んでいたのか、年輩の女性客が隣にいた。話し好きな人らしく、普段物静かな母も旅の開放感からにこやかに会話をしていた。
  いくつかのトンネルを抜けた時、その人は母にチリ紙を渡しながらこう言ったのだ。
「奥さん、煤がつくと後のお手入れが大変ですよ。外してこれにくるんで、しまっておかれた方がようございますよ」
  真珠は汗にも汚れにも弱い。それを心配した婦人が、老婆心から忠告をしてくれたのだろう。それなのに私は、その人が母に何か意地悪なことを言ったのだと思った。ネックレスを外し、受け取ったチリ紙に包んでバッグにしまう母の顔が、泣き出しそうに見えたからだ。
  母の困ったよな悲し気な顔の訳を知ったのは、それから二十年以上もたってからのことである。友人の結婚式に出席するため、首飾りを貸して欲しいと言った私に、母はあの夏の日のことを話してくれた。
  母の真珠は−まっ赤なイミテーションだったのだ。
  思えば父は出稼ぎ、母は内職という貧しい生活で、本物の真珠など持てるはずがない。汽車で乗り合わせた女性の心遣いに、母はどれだけ戸惑っただろう。半年ぶりに夫に会うための装いを、「ニセモノですから」と言えなかった母をいじらしいと思う。
  母は自分の行為をとても恥ずかしいと思ったそうだ。母が恥じたのは、イミテーションで身を飾ったことではなく、本物のフリをしてしまった女の見栄を、娘の私に見られたことだと言った。
  次の年の春、私たち一家は名古屋で父と暮らすことになった。けれど父は農家の長男だったため、母は周りの人から『跡取りに家を捨てさせた嫁』というらく印を押されてしまった。
  生活は苦しかったが、知り合いのいない都会の暮らしは母の性に合っていたようだ。相変わらず他人の洋服を仕立てる内職をしていたが、自分のための服にも流行を取り入れ、センスの良い物を着るようになった。
  本物の真珠にはなかなか手が届かないが、母は名古屋に来てかけがえのない宝物を手に入れたという。それはあれほど窮屈でたまらなかった田舎が、懐かしい故郷として恋しく思えるようになったことだそうだ。
  その話を聞いてから、私はひとつの計画を立てた。三十年近く故郷の土を踏んでいない母を、新居浜に連れて帰ることだ。
  母はためらった。舅姑が死んだ時も、自分の父親が死んだ時にも帰れなかった町である。私は八十三歳の祖母と連絡を取り、その計画を実行に移した。去年の春のことだ。
  母の眼に故郷はどんな色に映っていただろう。祖母と抱き合う母の涙は、真珠のように美しく輝いていた。

(「パール・エッセイ集」の作品より)








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