真珠パールエッセイ・私の真珠物語
 

花嫁人形  宮口隆


その将校宿舎は、北京銀座といわれる王府井大街の南端にあり、隣には高級ホテル北京飯店が聳えていました。
  昭和十七年、当時私はこの宿舎に軍属として勤務していましたが、食堂にはひとりの中国少女が給仕として働いていました。本名は陽芳蘭といい、十七歳で中国人特有のきめこまかい肌に漆黒の長い髪、くりっとした瞳、笑うと片えくぼが愛らしく、花子と日本名をつけられた少女は将校たちのアイドル的存在でもありました。それに、たどたどしい日本語でいつも冗談を言っては周囲を笑わす明るい少女でした。
  その年、同い歳であった私は、自然と彼女に想いをかけるようになり、話しかけるチャンスを待っていました。故郷を遠く離れた地で、少年が異国の少女に愛を持つことは、時節柄大いにはばかられる点もありましたが、ホームシックがそれを超える当然の成りゆきであったかもしれません。
  そんなある休日、上の方から胡弓の音が聞こえてきました。源をたどってゆくと、屋上の日陰で彼女が無心に弾いているのが見えました。しかも、驚いたことに曲は日本の童謡『花嫁人形』なんです。
    文金島田に 髪結いながら
    花嫁御寮は なぜ泣くのだろ
  もともと哀愁を帯びたこの歌は胡弓の旋律によく合い、えも言われない雰囲気を醸し出しています。私は思わず駆け寄りました。びっくりして手を止めた彼女に、
「上手だね」
  と話しかけたのがきっかけで、あとは堰を切ったようにお互いの生い立ちから将来の夢まで、時を忘れてしゃべり続けました。
  天衣無縫の朗らかさは親ゆずりなのか、いつもはしていない大きな真珠のイヤリングが秋の陽にまぶしいくらいでした。中国といえば翡翠が連想されますが、彼女に限り、その真珠は無邪気と純情を固めた象徴にも思えました。『花嫁人形』は、南京へ移っていった将校に習ったのだそうです。
  私も負けずに、『さくらさくら』や『荒城の月』など知っている限りの日本の歌を教えましたが、実に覚えが早く、お互いの愛情も一層加速していきました。
  そんな頃、思いもかけず宝塚歌劇団の慰問公演が開催されることになりました。会場は北京飯店です。誘ってみると彼女は二つ返事でついてきました。
  『元禄花見踊り』で開幕した絢爛なステージに、彼女は身を乗り出して食い入るように見つめています。次は奇しくも彼女が覚えた『花嫁人形』です。白無垢姿の踊り子たちが長い振り袖をひるがえしながら舞うのを見て、彼女はもう放心状態です。
「あれが日本の花嫁衣裳だよ」
  と教えても、とても耳に入らないようすです。終わった途端、何を思ったのか彼女はステージに駆け上り、司会者に何か言っています。司会者がうなずき、マイクを握ると、
「この少女が胡弓で花嫁人形を弾きたいと言っている」
と観衆に告げました。すると、万場割れんばかりの拍手が沸き、アンコールされた花嫁たちが再び舞いはじめました。
  彼女は少し緊張の様子でしたが、例の真珠のイヤリングをきらめかせて懸命に胡弓を弾いています。まさに日中親善そのものです。
  息を弾ませて戻ってくる彼女に、さらに一段と大きな拍手の嵐が起こりました。
「どうしてあんなこと思いついたの」
と聞いても、
「わかんない、気がついたらステージに上がっていた」
と少しはにかみながら言いました。思わず頬ずりしたくなるような気になりました。
  外へ出ましたら、ドンチャン、ドンチャンと楽器に合わせた、中国特有のきらびやかな花嫁行列が長安街を進んでいましたが、あまりにもタイミングが良すぎるようにも思えました。彼女も年頃、やがての結婚を思い浮かべるのか、長い間じっとそれを見送っていました。
  そんな私の恋も、終戦の引き揚げであっ気なくご破算になってしまいましたが、別れる時彼女がくれた真珠は、いま私のネクタイピンとして宝物のように大切にしまってあります。そのネクタイピンをして、いつかまた、あの懐かしい北京を訪れてみたい気持がふつふつと沸き上がります。
  花子、いや陽芳蘭。あの笑顔が忘れられません。生きていたならきっといい太々(奥さん)になっていることでしょう。彼女の幸せをひたすらに想う今日この頃です。

(「パール・エッセイ集Vol.5」の作品より)








愛媛県漁協 本所 真珠課 愛媛県漁協 本所 真珠課
〒790-0002 愛媛県松山市二番町四丁目6番地2
TEL:089-933-5117 FAX:089-921-3964
フリーダイヤル:0120-42-5130
E-mail:m-shinju@ehimegyoren.or.jp

愛媛県水産会館