真珠パールエッセイ・私の真珠物語
 

「三つの真珠」       川谷ミチエ


手のひらの上にぽつんと置かれた真珠の指輪。私はしばらくぼう然とそれを眺めていた。細い金の台に一粒の小さな小さな真珠。
「姉ちゃん、これやるよ」そう言って弟が私の手のひらに握らせていったのである。あれは私が二十五才くらいだったろうか。
 私が東京で働き出したのは終戦後間もない昭和二十四年、十六才の春からであった。当時の東京には空襲の焼け跡も残っていて、銀座や新宿の大通りにはまだ屋台店が並んでいた。私はお手伝いさんで月給は二千円くらいだったと思うが、ほとんどを親元に送金した。そして三年後、弟も上京してきた。弟は中華そば店で見習いである。
 私たち姉弟はよく働いた。というより、よく辛抱したと今でも思うのである。ことに弟は見習いの小僧である。会う度に切り傷ややけどの跡があった。随分つらい思いもしたようだが、持ち前の明るさで乗り切ったのである。
 故郷の両親に仕事は無かった。父は出稼ぎで生計を立てたが、末の弟が小児結核で母は看病に掛かり切りであった。私は少しでも多くを送金したいと、その一心で転々と職を変えた。日本中がまだ貧乏な時代であった。
 いくつかの波乱の時が過ぎて、弟は店主から店を任せられるようになり、私もアパートの三畳の部屋で自炊を始めたころ、弟が真珠をくれたのである。どういうつもりだったのかと、照れ臭くていまだに聞いてはいないけれども、あのころ、私は身を飾るなど無縁と割り切って働いていた。コンパクト一つ持っていなかった。手のひらの真珠の上に訳もなく涙が落ちた。
 二つ目の真珠の指輪をもらったのは結婚して十年目くらいだったろうか。夫がくれた。結婚して間もなく、夫は勤めていた会社から独立してたった一人だけの会社を創った。何もない所から始めた。間借りをした四畳半の部屋代を払えない月もあったが、私は毎日が楽しかった。夫の仕事を直接手伝えないのが悔しかったけれども『今にきっと夫は成功する。ビルが建つんだ』私はそう信じて、家計を受け持っていた。今でいうパートで働いたのである。夫の事業はなかなか軌道にのらず、経済的にはつらい時代が続いた。
 そしてある日、夫が小さな包みを持って帰ってきた。赤いリボンが付いていた。ふっくらとした貝型のケースに入っていて真珠の指輪があった。八ミリ球でプラチナ台のシンプルな形である。夫の会社に大きな契約が取れたのだ。「もう会社はつぶれないで済むよ」と言った。何よりも夫の笑顔が私はうれしかった。
 だが、それからも夫の事業ははかばかしい進展をみせなかった。私も大きな病気をしてしまった。右腎臓を摘出したのである。子供にも恵まれず、姑から見れば気に入らない嫁であった。離婚も考えたが両親はすでに他界していた。帰る家はない。病後の体力では一人の生活に自信が持てなかった。何よりも一人で暮らす寂しさを身を持って知っていた。
 時の流れというのは無情のようでも、往々にして傷付いた心を癒してもくれる。長い間には夫の事業も落ち着き、従業員も増えた。住居も古家ながら、一軒家に移り、私の仕事は家事だけになった。夫と私の生活はおおむね平穏に二十五年目も過ぎた。
「ネエあなた、もう二十五年もたったんですね」私はしばらくぶりに早く帰った夫に言った。
「……」
「あなたと私の共同生活ですよ」
「ああ、よくもまあ持ったもんだよな」
 生活が安定して振り返ると、アッという間の年月のように思えた。夫は六十才に手の届く年齢になっていた。穏やかな顔付きも小太りの体型も昔とちっとも変わらないように思えるけれども、しゃべり方やしぐさに、やはり歳は滲んで見えた。私は一人で会社を保ってきた夫の健康が気掛かりであった。
 三つ目の真珠をもらったのはそんな話をして間もなくのころだったろうか。私の机の上にさりげなく置かれていた水色の小箱。その中にプラチナ台にメレダイヤが取り巻いた大粒の真珠の指輪があった。魂が洗われるような輝きをしていた。私の年齢には少々派手ではあったが、夫の気持ちが身に染みてうれしかった。そのころは結婚式へのご招待もしばしばあって、私は晴れがましい気持ちでその指輪をして出席したものであった。
 私がもらった三つの真珠は私の宝物である。生きてきた節目節目に天から賜った勲章である。クレオパトラが美しさの素として愛飲したという真珠。私の人生がこれらの真珠の中にきっちりと詰まっているのである。
 現在、夫は七一才、毎日会社へ出掛けて行く。かなり背中も丸くなった。今年、夫と一泊旅行で蛍を観に出掛けた。結婚して初めての二人だけの旅であった。
 弟は六十才、故郷で中華料理店主である。夫にはとうとう実現しなかったけれども、この秋故郷の町に二つ目のビルが竣工する運びだそうである。

(「パール・エッセイ集Vol.2」の作品より)








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