「真珠の指輪」　　　　　　　浅野　憲治



「僕、修学旅行には行きません」
　先生にそう告げると、先生は顔を曇らせ悲しい顔をした。兄や姉たちも中学校の修学旅行には行かなかったから、私もそれが当然だと思っていた。その当時は、家族八人が食べていくだけが大変で、授業料や給食費すら滞ることが多かった。給食費を払えなくて給食を食べることは、その私の思いを卑屈なものにした。しかし兄や姉たちはいわゆる欠食児童で、昼になると校庭に出て、みんなが弁当を食べているのを横目で見て我慢していたという。その点私の時代には給食が始まり、とにかく昼飯にはありつけた。父も母も必死に働いていtが、戦時中の「産めよ、増やせよ」政策を忠実に守ったため、貧乏人の子だくさんの状態が戦後の長い期間続いていた。だから、修学旅行に行けないことぐらい当然のことで、そんなに悲しいことではなかった。私は平気だった。
　しかし、戦後の混乱期も終わり、朝鮮戦争の特需景気のせいもあり、世の中が少しずつ豊かになってきた時代であったから、先生にとっては五十人を超えるクラスの中で、私一人だけが修学旅行に行かないのは納得できなく残念だったのだろう。その日の夕方、家庭訪問をし、長い間父や母と話し合っていた。そこでどんな会話が持たれたかは私は知らなかったが、先生が帰ってから父が「憲治、修学旅行に行け」と、うれしくもない顔をして言った。よほど苦渋に満ちた決断だったと思われた。こうして、私は兄弟姉妹六人の中で一人だけ修学旅行に行くことができた。先生は私が喜ぶと思っていたようだが、私にはたいしてうれしくもなかった。むしろ、一家全員に対して申し訳がないという気持ちのほうが強かった。
　修学旅行へ出発する朝、母は小遣いとしてヘソクリから人並みの金額のお金をくれた。このヘソクリを、母がどんな努力をして貯めたものか、そのころの私にはもう分かっていた。全員出席しての修学旅行が実現できたことが先生にはよほどうれしかったのか、バスの中ではしゃぎまくっていた。しかし私には、こんな事でお金を使う心苦しさだけが頭の中を占め、少しも楽しくなかった。
　修学旅行先には、日本で初めて真珠の養殖に成功したという島も含まれていた。そこでは真珠のできるまでを実演で見せてくれていたし、海女が海中から真珠貝を拾い集めてくる実演もしていた。私には、家にのこしてきた家族がどう思っているかが気になり、それらの実演も楽しいものではなかった。兄や姉たちはきっと羨んでいることだろうし、父や母には思いがけない出費になり、この出費を補うために、また夜遅くまで働かざるを得ないことだろうと、そういう事しか心には浮かばなかった。そしえ、あんなことまでして生活を支えなければならない海女の生活のことを思って、悲しい気持ちになっていた。
　それでも修学旅行先の旅館での枕投げや、集団で大きなふろに入るのは楽しかった。そして、その旅館の売店に、あの真珠の指輪が売られていた。ちょっとくすんだ鈍い光沢を放つ真珠は、私の心を捕らえて離さなかった。母のくれた小遣いは、できるだけ使わないようにするつもりであったが、あの真珠の指輪を母へのお土産にしたら母はどんなにか喜んでくれるだろうかと思いを馳せるを、「買いたい」という誘惑に負けそうになってしまう。母がくれた小遣いを頭の中で計算し、真珠の指輪の値段と見比べ、何度も売店の前を往復した結果、思い切ってその指輪を買ってしまった。子供心にも、これでいくらかの贖罪を果たしたと満足していた。修学旅行で使ったお金は、この真珠の指輪代だけであった。
　修学旅行から帰って、母にだけこっそりお土産として、大事にカバンの一番下に隠しておいた真珠の指輪をおずおずと出すと、母はてっきり喜んでくれると思っていたが「こんなものを買ってきて、ムダ使いをして」と、悲しそうに懐にしまった。大きな裏切りに遭ったような気持ちになり、その時初めてわが家は本当に貧しいんだと、心からそう思った。そして、貧しいという事の意味を理解した。
　母は、私のお土産の指輪を一度も指にはめることもなく死んでしまった。そして、母の形見分けをしていた姉たちが、その真珠の指輪を見つけ出した。
「母さんがこんな指輪を持っていたなんて、ちょっとも知らなかったわ」と、無邪気に取り合っていた。こうして永遠に真珠の指輪の件は、私と母だけが共有する秘密になった。その時、私には母が本当に身近に感じられた。