真珠パールエッセイ・私の真珠物語
 

「しんじゅ」       真鍋 真弓



 昨年六月に結婚したときに、母が真珠のピアスとネックレスを私に贈ってくれた。ちょうど同じ月に皇太子様と雅子様がご成婚され雅子様のアクセサリーとしてパールが流行した年だったが、それとは関係なく贈ってくれたものだと私は思う。
 母は二十歳で私の家へ嫁いで来た。当時四歳の私と、祖父と祖母がいて家は農家だったし、きっと母の苦労は絶えることがなかったと思う。
私も最初の頃は、母を「お姉ちゃん」としか呼べなくて祖母に叱られたり、突然我が家へ嫁いで来た若い母を、恥ずかしいのと事をよく把握できないのとで困らせたりもした。それでも母は普通の家庭と変わりのないようにと、家族旅行をしたり海でキャンプをしたり、ときには厳しく叱ったりと六歳下の弟と私とを分け隔てなく実の娘のように育ててくれた。私もまた、若くてきれいな母がとても自慢で小学校二年生のときに、母の似顔絵が明るく上手に描けていると、担任の先生に市内の展覧会への出品を勧められたほどだったのだが、この頃母への思いは素直に絵に表現することができたのだと私は思う。
 けれども高学年になるに連れて今までのような母への思いは抑えられるようになっていった。母と血のつながりがないことや家庭のことを同級生や上級生に厳しく言われ始めたのだ。学校へ行けばまたいじめられるからと行きたくなくなり、行かなければ親が心配するからと悩んだ。神経性胃炎にもなった。そんなある日ランドセルを背負い家を出て四、五分いつものようにまた戻ってしまった。台所で食器を洗っていた母が私を見て泣いた。「情けない!」と言って涙を流した。今でも忘れられないが、母は、私の「母親」になろうといつだって努力していた人なのだ。母の涙を見て、学校でいじめられる理由は決して言ってはいけないと思った。言えば悲しむのは母なのだ。それからは学校で何を言われても泣き寝入りしないことにした。何を言われても、無視することにした。あいかわらず言いたいヤツは勝手に言っていた。ずっとかまわないふりをしていたが、私が悪いわけじゃないのに、とやりきれない思いはいつもあった。それでも母を泣かせるのはそれ以上にやりきれないので、強がってでもいずにはいられなかった。素直になれないのは今でもそうなのだけれども。
 私が、今の主人と付き合い始めたころ、最初に喜んだのは母だった。ほとんど毎日かかってきた主人からの電話を、いつもニコニコしながら(ニヤニヤだったかも知れない)取り次いでくれていたし、主人のことでの相談や悩みは快く聞いてくれた。主人の「結婚を前提にお付き合いしたい」という言葉を聞く前から結婚を意識していたのも、母の方だった。
「本当の母子ってこんな感じなのかなあ。」
 血はつながっていなくても情が移る、ということもあるけれど、そんなレベルではない。それを越える何かが私達の間にはあると信じたい。
彼女は私の母になろうといつも努力していたし、私もそんな彼女を徐々に認めざるを得なかったのだ。
 結婚式の日取りが決まってから母は大忙しだった。家具を購入するにも予め下調べしておいてくれたり、隣町まで私の浴衣を持って行って喪服をつくってくれていたり。結婚式の衣装合わせではあれこれ迷っている私を「自分が一番気に入ったものがいいよ。」と微笑みながら見守っていてくれた。なぜだか、このときの母の姿がわりと忘れられない。次々と衣裳を合わせる私の姿と、幼いころからの成長アルバムとを交互にみつめているような目をしていた。
 結婚式の一週間前、母は少し改まって私を呼んだ。「行きつけの時計屋さんで買ってきたの。」と言って差し出してくれた箱の中に真珠のネックレスとピアスがあった。「今流行りだけど持ってたらずっと役に立つよ。」そんな言葉だったが、私が結婚するときには真珠を贈ろうと何年も前から決めていたに違いない。
「真弓は六月生まれだから誕生石は真珠だね。」と私が小さいころからいつも言っていたのだから。
 私と母は本当の母と娘、というものを知らない。でも母の努力が私を支えてくれていたからこそ、血をわけていなくともそれを越えるものがあった。母のこの贈りものは今までのそういった万全の思いを「しんじゅ」という響きに託して、私の大切な宝物となりました。
優しさ色のこの真珠、母の愛情と私達の思いが込められているのです。

 

(「パール・エッセイ集Vol.1」の作品より)








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