真珠パールエッセイ・私の真珠物語
 

「真珠の首飾り」       陶  智子


最近では「パールのネックレス」なんてハイカラによばれる真珠の首飾り。私は深い愛着をこめて「真珠の首飾り」とよびたいと思います。
私のそれは、鹿皮のやさしい手触りの箱に大切におさめられたかけがえのない宝物です。
 今から何十年も前のこと。私の父と母は結婚をするときにいくつかの約束をかわしたのだそうです。そのひとつが、二人の間にもし
女の子が生まれたらその子のお誕生日に一粒ずつ真珠を買って、いつの日か首飾りにしてプレゼントしようということでした。
 結婚して二年目の六月。六月の誕生石は真珠。二人がまちにまった赤ちゃんが生まれました。しかし、それは男の子。
 そしてそれから、二年後の七月に男の子のように元気な女の子が生まれました。それが私でした。
 父と母はさっそく祖父の代からお付き合いのあった高橋真珠店のご主人にお願いして、そのころの父の薄給にはちょっぴり、いえ相当贅沢な
真珠を一粒買いました。
 次の年も、一粒。その次の年も一粒……。高橋真珠店のご主人は、成長した娘の写真を持って、毎年たった一粒の真珠を買いにくる父と母を
どのように思っておいでだったでしょう。父と母は、一粒ずつの真珠のわけをご主人にちゃんとお話したのでしょうか。
 真珠が十数粒になった年、ご主人は店の奥から、鹿皮でできた上等の首飾り入れを持ってきて父と母にこう言ったのだそうです。
「真珠はもう随分な数になったでしょう。そろそろ、真珠のベッドが必要ですよ。」
 父はもちろんそのころもしがないサラリーマンで、育ち盛りの子供の養育費のことを考えると、とても真珠のベッドを買うことは不可能だと
ご主人に丁寧にことわりました。
「もう少しして、余裕ができたらお願いします。」
「いいえ、これはお売りしようと思ってお見せしたのではありません。」
 ご主人は笑って、最初からお渡ししようと思っていたと父と母に言ったのです。
「首飾りになるまで、真珠がやすらかでいられるうに……」
 ご主人の真珠への深い慈しみの心を知って父は黙って頭を下げて帰って来たのでした。それからは、毎年一粒ずつふえる真珠は大切に
真珠のベッドに寝かされました。いつの日か一連の首飾りとなる日を待って。
 私が、東京の大学に学んでいるころのことでした。突然、高橋真珠店のご主人の訃報が届いたのだそうです。跡継ぎのいない真珠店は閉店。
一粒ずつ揃えた真珠はまだ首飾りになるには足りませんでした。
 私の誕生日が過ぎて半年もたとうかというその年の暮れ、父は首飾りのベッドを持ってデパートの真珠売り場をたずねました。
「この真珠と同じ粒を買い足すことはできますか。」
 真珠売り場の主任という人が丁寧に一粒一粒の真珠を調べてから
「これだけ上等なお品を揃えることは大変に難しいことでございますが、まあなんとかいたしましょう。しかし、お値段ははりますよ。」
といって高橋真珠店の倍以上の値段を告げました。父は全く途方にくれました。もちろん首飾りにするために必要な真珠の粒残り全部を
一度に買わなければなりません。そんなことは到底無理でした。
「考えさせて下さい。」
と言ってその場を離れた父は真珠の首飾りのことは諦めよう、ありのままを妻と娘に話そうと思いました。
 その年が終わり、次の年が始まってまもなく、高橋真珠店の奥様から一通の手紙が届きました。ご主人の遺品を整理していたら、
父にあてた箱が見つかったというのです。あわてて訪ねると、奥様は父に鹿皮の箱に大切におさめられた残りの真珠と手紙を手渡しました。
そこには、ご主人の病気のこと。そのためお嬢さんの首飾りが出来上がるまで元気でいられることはないだろう。もし、首飾りが
出来上がらないうちに私が亡くなったら残りの真珠を渡すようにとしたためた奥様への手紙もありました。いくら御遺志とはいえ
そのようなことはできませんという父に奥様は
「子供のいなかった主人と私はお宅のお嬢さんのお写真を毎年拝見できるだけでとっても幸せだったのですよ。主人なんてまるで自分の孫
みたいに……。ほら、こんなに背が伸びただろうとか。髪が長くなったとか。もう充分にお代は頂戴しております。」
 私の真珠の首飾りは鹿皮のベッドの中で大切な時を待っています。その写真を今度は私の手で奥様にお見せできるように……。

 

(「パール・エッセイ集Vol.1」の作品より)








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