真珠パールエッセイ・私の真珠物語
 

「真珠」と「キッス」       早川圭子

  山を背にした広場に、とんかちの音が響き渡り、芝居興行の小屋掛けが始まると、大人も子供も何となく心が浮きたってくる。やがて小屋の上に色とりどりののぼりがはためき、それから程無くすると、派手な化粧と、それに負けない位派手な着物姿のサンドイッチマンがにぎやかな音楽を奏で、町や村をねり歩く。
 この音楽が聞こえてくると、大人達は早々に仕事を切り上げ、隣近所の人達と連れだって、芝居見物に出掛ける。子供達は、普段は貰えないお小遣いを貰い、芝居小屋と同時に店開きした露店で水飴や焼きイカを買い、それを食べながら、露店商の前に並んだ品を見て回る。
 昭和二十年後半、ラジオ以外、これといった娯楽もなかった人々の楽しみは、こうして年に一度訪れる旅芸人の芝居を観ることだった。
 私が小学校四年の秋にも、小屋が掛けられ、私のクラスに飯干佳代さんという、旅芸人の子供が転入してきた。その当時、旅芸人の子供達は親の巡業について全国を回り、巡業先の学校に、その間だけ転入するというのが常だった。それだから、私達はなんのわだかまりもなく彼らを受け入れ、すぐに友達になれた。彼らは刺激の少ない田舎の学校の生徒達に、いろんな面で新風を吹き込んでくれる、ありがたい存在でもあった。旅行と名のつくものはおろか、汽車に乗ったことさえない田舎の子供たちにとって、彼らから聞く遠い町や村の話は面白かった。また当時、人気歌手だった小鳩くるみや松島トモ子達の噂話が聞けるのも楽しみのひとつだった。
 ある日の放課後、校庭で石けり遊びをしていた私達のところに、飯干さんがやってきた。飯干さんは、その頃私達の間で「お客様言葉」といっていた東京弁を使い、地主の子供ですら持っていない、フリルの沢山ついた、キラキラ光る生地の洋服を、毎日取っ替え引っ替え着てきた。その姿はまるでお姫様のようであり、同年の私たちよりずっと大人びて見え、転入してきたその日から、皆の憧れの的だった。その飯干さんが
「皆さんに素敵なものお見せするわ」
と近づいて来た時、みんな我先にと、飯干さんの側に駆け寄っていった。
「素敵でしょう?」
飯干さんは、首にさげた金色の鎖に、大小様々な白い玉が連なった首飾りをつまみ上げ、自慢気にそういった。その白い玉は、夕日を受けてキラキラと輝き、とても美しかった。
「それなんけ?」
裕子ちゃんが方言まるだしで尋ね、慌てて手で口をふさいだ。飯干さんは裕子ちゃんの方をチラリと見て、
「これ真珠という宝石なの」
鼻筋の通った顔をツンと上むけて、そういいながら、慣れた手付きで首飾りをはずすと、私の首にかけてくれた。思いもかけない成り行きに、私の体はカッ!と熱くなり、心臓がぱかぱかなった。みんなの羨望のまなざしの中で、校舎の窓ガラスに映った、私の緊張した顔はいつもより大人びて見え、真珠の首飾りが自分にとても似合っていると思えた。
 この時の真珠との出会いが、将来の私を真珠好きにするきっかけになろうとは、その時十歳だった私は夢想だにしなかった。
 生まれてはじめて真珠という宝石に触れ、最高にはしゃいでいる私達に向かい、
「皆さんキッスって知ってる?」
と飯干さんがいった。初めて聞く「キッス」という言葉に、みんなは一斉にかぶりを振った。
「キッスって男の人と女の人が唇を重ね合わせることなの。大人は誰でもやっているわ」
飯干さんは凄いことを平然といってのけた。
「げっ!唇を重ね合うなんて気持ち悪い」
と誰かが叫んだが、飯干さんの言葉に強い衝撃を受けてている私達は、誰も笑えなかった。すごいショックを受け、言葉の無い私達を後目に、飯干さんは、ふふふ……と笑うと、花柄のスカートを風になびかせて駆けて行った。
 その夜、私は始めて見た真珠の首飾りの美しさと、キッスの言葉で垣間見た大人の世界のことで興奮し、なかなか寝つけなかった。
 飯干さんが昨夜のうちにのぼりをたてたトラックと共に、この町を出ていったと知ったのは、翌朝のホームルームの時間だった。その日から暫くすると、これまでの旅芸人の子供達と同様、誰も飯干さんのことを話題にしなくなった。そのことが私は淋しかった。
 あの日、飯干さんが「真珠」を首にかけてくれたからこそ、私はこれほど真珠に愛着を覚えるようになったのだし、あの日、「キッス」という言葉を教えてくれたからこそ、私は大人への入口の扉を叩けるようになったのだと思う。だからみんなが飯干さんを忘れたとしても、私は決して忘れない。
 「真珠」と「キッス」
このふたつの言葉を知った十歳の秋の日、私は私の中で少女を卒業していった。

 

(「パール・エッセイ集Vol.3」の作品より)








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