真珠パールエッセイ・私の真珠物語
 

形見のブローチ       徳永 一末

 従兄弟(いとこ)の正男(まさお)の、五十年忌がきました。
 回向(えこう)の最後ということで、親類一同が招待されました。
 正男は、昭和十九年七月十六日に、十八歳の若さで南海に散った、いわゆる特攻隊員でした。十歳の時に実母と死に別れ、十三歳から、父が迎えた新しい母に育てられたが、その継母(ままはは)にはなつかず、ついに出征するまで一度も母と呼ばないままで、征(い)ってそれきりでした。しかし世の中は皮肉なもので、彼が一度も母と呼ばなかった継母に、五十年忌の回向をしてもらうことになったのです。父はその五年前に死んでいました。
 継母は、千代さんといって、なかなかのしっかりもので、その時七十五歳でした。
 自分の子供が、一人いました。
 男の子で、今は成人して、千代さんは、その息子夫婦と暮らしていました。
 さて、私は、この五十年忌にあたって、かねてより、是非ともやってみたいと狙っていたことが、一つありました。それは戦死した正男の、遺骨箱のことでした。世間の話では特攻隊員に遺骨はないはずだから、中は空っぽだということでしたが、正男の遺骨箱には何か入っていたのです。ふってみると、ことことと、音がしました。何か形のあるものに違いありません。
 長々と続いた僧侶の読経が、やっと終わったところで、私は、千代さんに、このことを話してみました。すると、千代さんも
「そうですね、親類の皆さんも、立ち合いの上で、一ぺん開けてみましょう」
 と、承知しました。それで開けてみると、中には便箋にくるまった、真珠のブローチが入っていました。そして、その便箋には、次のようなことがペン字で走り書きしてありました。
 お母さん、許して下さい。自分は卑怯者でした。お母さんに可愛がって頂いて、心では感謝していながら、お母さんと呼ばねばわるいとわかっていながら、つい言葉には出せませんでした。今日、改めてお詫び申し上げます。
 このブローチは死んだ母のものでした。
 形見のつもりで、入隊する時、こっそり持ってきましたが、いよいよ明朝、出撃と決まると、この真珠、修羅の海には似合いません。見て下さい、この幽玄な光りを。これは平和の光りです。幸せの輝きです。戦乱のあとには、きっと平和がくるでしょう。
 お母さん、このブローチを受け取って下さい。そしてお母さんは、このブローチと共に、どうか私の分まで永生きして下さい。
 そして最後に思い切り呼ばして下さい。
 この世に生を受けて十八年五ヶ月、正男は立派に散ります。
 「さようならお母さん!」
 出撃のあわただしさに、投函するひまがなく、残していたのを戦友が、遺骨箱に入れたもののようでした。
「正男!」
と、しっかり者の千代さんも、この時ばかりは遺骨箱を抱きしめて、泣きました。
 私も、泣いた。
 皆も泣いた。
 その日からお千代さんは変わりました。
 気むずかしい、いじわるばあさんが、にこにこ顔のあばあさんになって、隣町の、老人大学に入学しました。
 その胸には、あの真珠のブローチが晴れやかに輝いていました。
 そして、誰彼となく、お千代ばあさんは、ブローチの胸を張って、
「私の、長男は─」
と、正男のことを自慢しました。そして、今も達者です。

 

(「パール・エッセイ集Vol.1」の作品より)








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