真珠パールエッセイ・私の真珠物語
 

二十年後       池田けいこ

 「鳥羽はどうでしょうか、あの、伊勢志摩の」
 年一回の研修旅行の行き先が議題になった時、久子さんがすぐ言った。二十数年前、当時勤めていた職場でのことだ。旅行は二泊三日だから鳥羽でも良いのだけれど、勢い込んで言う割には少しばかりローカルすぎるような気がした。が、ほかに提案もなく、反対する人もなかったので、原案通りということになった。
 「どうして鳥羽なんかに行きたいの」
 久子さんは鳥羽の真珠島へ行きたいのよ、と前置きしてから、まあ聞いてちょうだいと、こんな話しをした。
 なんでも、彼女の御主人が出張で、一週間ばかり北陸から信越地方にかけて出かけたのだそうだ。お土産は何がいいと聞かれた時、日程の中に三重県が入っているのを見て、即真珠と注文した。ご主人は快諾し、時間をつくって真珠島へ行き、良いのを買ってこようと約束した。久子さんは御主人の帰りを楽しみに待っていた。ところがむっつりと帰宅した御主人は、せんべい、漬物、のれんの包みを渡しただけであった。
 「『真珠は?』『売っとらなんだ』。あほぬかせ(いまだに怒りの解けない新妻の久子さんは本当にこう言ったのである)ってのよね。真珠があるから真珠島っていうんじゃないの。それを売ってなかったとはようも言うた。だからね、私、自分で真珠島へ行って買うことにしたの。研修旅行で行けたら一石二鳥でしょ」
 久子さんはちゃっかりそう言ってペロリと舌を出した。
 志摩の鳥羽といえば、真珠、真珠も本物となればそう安くはあるまい。私達女子職員は言うに及ばず、男子職員までが、彼らの奥さん、婚約者、はたまた母親、娘さんなどのために、普段よりちょっと大目の小遣いを持って行くことになったのだ。
 旅行二日目がお目当ての真珠島だった。私達は久子さんを先頭に、明るい店内へ入った。あの店のディスプレイは今でも覚えている。硝子の大きなショーケースにはブローチ、ペンダント、指輪の数々が品良く納まっていた。
 「ほら、いっぱい売っているじゃないの」
 久子さんがのたまう。
 金や銀と組み合わせたそれらは、まあ、そこそこの値段であった。ショーケースは長く右回りに奥へ続き、大きくだ円を描いて向こう側を通り一周している。
とりあえず全部見てから何を買うか決めることにした。
 ところが―。移動していくにつれ真珠の粒は大きくなり、細工は手が込み、上品に、豪華になっていく。初め見たのよりよりさっき見たの、さっき見たのより今度見るのがより大きく、より美しく、そして当然のことながらより高価になっていく。
 小粒のものでも、それだけを見たときは十分美しいと思ったのに、新たに大きい真珠を見ると先のは何だか見劣りして、欲しくなくなってしまうのだ。
 一番奥にはネックレスが並んでいた。二十数年前はピンク系の真珠が全盛で、これはもう小粒のは見劣りがすのしないのの段はない。値札に0の数が増えるにつれて真珠は大粒に、艶やかに、美しくなっていく。景気よくそれらを買っている、あるいは少なくとも買う心算でケースから出されているのは、当時一ドル三〇八円という大変な円安の恩恵がもろに受けられたアメリカ人観光客ばかりであった。私たち薄給のサラリーガールたちは、太った背の高いアメリカの老婦人たちが選び出すピンクの大粒のネックレスを、カーネル・サンダースみたいなその御主人たちが、いとも無造作に買うのを横目で見るばかり。とうとうショーケースを一巡して、元のつつしまやかな真珠のケースの前に戻ってしまった。私達は顔を見合わせた。久子さんは、はぁーとため息をつくと、私たちの気持ちを代弁するように言った。
 「ほんまや。 真珠、売ってなかったわ」
 私たちの真珠島の旅は、真珠貝に小さい小さい真珠をはめてガラスに封じ込んだ文鎮や、せんべい、手ぬぐいといった、修学旅行グッズを買っておしまいになってしまった。
 さて、このお話しには二十年後の久子さんのことを付け加えなくてはならない。
 久子さん夫婦が結婚二十周年を迎えた時、御主人はその記念にと、大粒の真珠のネックレスとイヤリングを久子さんに贈ったそうだ。しかしそれらは、鳥羽産のピンクのものではなく、金色の宇和島産のものだった。
 それが二十年という歳月の中で、久子さん夫婦の培ってきたものであり、産業としてみるならば、真珠の歳月そのものでもあったのだ。

(「パール・エッセイ集Vol.2」の作品より)








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