真珠パールエッセイ・私の真珠物語
 

真珠と伊予柑       鈴木さとみ

「四国の両親たちが僕たちの結婚に反対しているんだ。」
彼はいつも通りの静かな調子で言った。
「そう、やっぱりね。」
 私も落ち着いて答えたものの、鼻の奥がつんとしてそれ以上何も言えなくなった。
 彼は愛媛のみかん農家の長男だが、東京の大学を卒業してそのまま東京のコンピュータ会社に就職した。まだ社会に出て三年目だ。私は三十二歳で一度結婚に失敗した事がある。彼の両親にしてみれば息子がみかん農家を継ぐ気がないことはともかく、七歳年上で離婚歴のある私との結婚はまず許したくないだろう。予想はしていたが実際に反対されたと聞けばやはり寂しい。
 思い気分のまま二人で歩いていると彼がふと宝石店のウインドウの前で足を止めた。
「へぇ、ダイヤの指輪って高いんだな。僕の給料の三ヶ月分じゃ指輪の台しか買えないな。」
 彼はなんとも楽天的でのんびりしたところがある。せっかちで短気な江戸っ子の私とはまるで違う。
「あなたはいつものんきね。」
 つい声がとがってしまった。「いまは指輪どころじゃないでしょう!無責任よ。」
「別にいいよ、買おうと思ってたけどやめるよ。」
 私たちはそれきり黙って地下鉄の駅に向かった。別れ際彼は「親は僕が必ず説得するから。もう一度話し合って君に電話するよ。」と急いで言うと電車に乗り込んだ。
 それから数日たっても彼からは連絡がなく、私はもしかしたら彼とはもうこれで終わりかもしれないと考えるようになった。仕事を通じて知り合い、つきあうようになって二年。彼は常におだやかに私を受け止めてくれた。彼といる自分が年上であることも、過去の不幸な結婚のことも、すべて忘れてしまう。不思議と安心できるのだ。二人でいることがとても自然で、特別何をするわけでもなく、ただ話したり一緒に歩いたりして飽きなかった。しかしもう彼を解放してあげる時が来たのかもしれない。彼にはこれから先もっとふさわしい相手が現れるだろう。彼も今悩んでいるはずだ。年上らしくものわかりよく、こちらから笑って別れを切り出すべきかもしれない。けれどもそんな大人の女のようなことが私にできるだろうか。何より彼を失ったあとの孤独にどうやって耐えて行こう?揺れ動く気持ちのまま、こちらから彼に電話をした。「電話しようと思っていたんだけど、いろいろ忙しくてさ。」
 思わず背中がすっと冷たくなった。こんな世間の他の男たちと同じような言い訳を彼の口から聞くなんて。今までは決してなかったことだ。私が言葉をなくしていると
「もしもし聞いてる?ねえ次の週末あいてる?一緒に四国に行って欲しいんだ。」
 海外旅行には時々行くが、四国に行くのは初めてだった。羽田から松山へ。それから普通列車に乗った。やがて窓いっぱいに瀬戸内海が広がった。丸い島をぽかぽかとたくさん浮かべた、波のないやさしい海。夕日が静かな水面と島の緑をやわらかく照らしている。小船が沖で音もなく止まっているように見える。東京に生まれ、海といえば波荒く、水平線の向こうははるばるアメリカまで広がる太平洋ばかり見てきた私にとって、瀬戸内海はまったく違う海だった。源氏物語や平気物語に描かれ、何千年もの昔から日本人が一緒に生きてきた海。不思議と懐かしいような心が安らぐようなたたずまい。平安時代の絵巻物の世界のような瀬戸内海を、私は飽きずにながめた。
「向こう側は広島で、左にずっと行くと宇和島や。」
「すごくきれい。オーストラリアの珊瑚の海よりずっときれい。」
 私はなんだかわかった気がした。彼のおだやかさ、温かさはこの海を毎日見て育ったせいだったのだ。社内には制服を着た高校生や地元のお年寄りが多い。みんな彼と同じ健康な小麦色の肌をして、浄瑠璃を思わせるやわらかいアクセントでゆるゆると話している。
 無人駅を降りると、彼の父親が小型トラックで待っていてくれた。よく日に焼けた小柄な人だった。
 一晩を彼の家で過ごした。彼の両親と結婚のこと、将来のこと、率直に話し合った。結論が出ないまま翌朝東京に戻る私たちに、彼のお母さんが伊予柑や鯛の蒲鉾と一緒に小さな箱を渡してくれた。蓋を開けると真珠の指輪だった。「あの子はまだあんたに指輪も買うとらんのじゃろう。これは私の昔のもんやけど、あんたにしてもらおう思うて。私は畑やら家のことやら忙しいて、この指輪はほとんどする時がなかったんよ。」そして「あの子のこと、よろしゅうお願いしますよ。」と頭を下げた。
 私は何も言えずただお母さんの手を握った。あのやさしい海で育まれた真珠、この土地で生きる人の深い真心。私はそれを生涯の宝物にしよう。この真珠と一緒に彼と彼の両親を大切にし、幸せになろう、皆で。私の手の中で小さな乳白色の玉は、たった今生まれたばかりのようにみずみずしかった。

(「パール・エッセイ集Vol.4」の作品より)








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