真珠パールエッセイ・私の真珠物語
 

おばあちゃんの真珠基金箱       藤川堯子

 母の真珠のネックレスを買う基金箱を置いたのは、私です。
 着物しか着なかった母が、七十近くになってすっかり洋服の気やすさにみせられて、洋服を着こなすおばあちゃんに変身しました。
 母はデパートでとっかえひっかえ試着するのがきらいで、見定めたら「これを下さいな」といきなり店員に向かって言うので、店員はびっくりして必ず「ご試着にならなくって結構ですか?」と聞くのだが、母は「ええ、いいですよ。いいですとも」と照れくさそうに言って、さっさと買ってしまいます。
 人前で洋服を着て鏡に写してみるのが照れくさいという、シャイな大正女です。
 身長一五〇センチほどの小柄な母のために、私はよく裾なおしやら、袖なおしなどしなければなりません。
 洋服を着るといっても、母は靴以外帽子もアクセサリーも何も持っていません。
「いいのよ。いいのよ。もったいなから洋服と靴だけで充分。バッグだって着物の時ので充分使えるし……。」
とさっぱりしたものです。
 でも、やっぱり襟元が寂しいのです。痩せているので喉のたて筋が目立ちます。
「おばあちゃん、やっぱりネックレスはあった方がいいよ。小粒の真珠なんか、どお?」
「年寄りだから、だれも見てくれる人なんかいないよ。」
「あら、年寄りだからこそ、華やぎは必要よ」
「でも高いだろ?」
「真珠をつけるからには、本ものでなくっちゃあねぇ。こんどおじいちゃんにねだってみな」
「そうするよ」
母はそう言っていたのですが、一向に買う様子はありません。
 そこで古稀の祝いも近いことだからと、私が真珠基金箱を設けたのです。
 里に帰る度に兄弟たちが、ポケットマネーを少しずつでもはたいてくれればいいと思ったからです。
 言い出しっぺの私は、まず大枚はたいて五千円札を入れました。私大生と高校生をかかえ、一番金のかかる時期にさしかかっていた我が家の家計では、私のポケットマネーなどいつも携帯電話のようにピーピー鳴っていたから、これ以上は無理でした。里の近くに住む妹も無理して五千円入れてくれました。
 翌年来てみたら、何のことはない。二万円たらずしかたまっていないのです。
「たくもー、どいつもこいつも甲斐性なしのケチばかり」と、ぶつくさ言ってみてもらちがあきません。一番リッチな兄弟が来る時には、母は「こんな箱を置いといたら連れ合いに恥ずかしい」と、どこかへしまいこんでしまっていたのです。
 そしていつか母の古稀の祝いも過ぎてしまい、真珠基金箱のこともすっかり忘れ去られ、父は父で、俺は先に行ってるよ、といった感じで、八十四歳でポックリ亡くなってしまいました。
 それから、母のボケが始まりました。
 母の記憶は五十年も六十年も前にタイムスリップし、すっかり過去に生きる人になってしまいました。家に居ながら「帰りたい」と言って荷物をまとめてみたり、つまり母の、帰りたい、は楽しかった若い日への回帰であって、誰にもかなえてあげることのできない望みだったのです。そのうち昼夜区別なく徘徊が始まり、足元もふらついて、いよいよ病院に入院することになりました。
 ふとしたことから押し入れにつっ込まれた基金箱を見つけた私は、大急ぎでデパートへ真珠のネックレスを買いに行きました。高価な真珠は買えませんが、ひかえめな値段の方がかえって母もよろこんでくれるものと勝手に決めこんで、安い小粒の真珠にしました。
 せめて入院の日の母の出で立ちに、首に掛けてあげたいと思いました。
 その日、よそゆきの服を着て、負ぶされて車に乗ってゆく母の痩せた胸には、大き過ぎるほどの小粒の真珠が揺れていました。
 お母さん、親不孝でごめんなさい。
 あれほど入院を嫌がっていた母が、その日みんなの顔を見て遠足に行く子供のようににこにこ機嫌よく、車の窓から手を振って出掛けていきました。
 車の中では、家に来ている子供たちに寿司を注文してこなかったことを最後まで気に掛けていたそうです。
 母はそれから特別養護老人ホームに入って、もう六年目になります。

(「パール・エッセイ集Vol.5」の作品より)








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