真珠パールエッセイ・私の真珠物語
   

一歩前へ       信本 恵子

 平成八年六月十八日、いつものようにオフィスコンピューターのキーを叩いていた。小さな機械室の窓からの明かりは弱々しく、梅雨の前ぶれを思わせる激しい雨が降っていた。
 「信本さん」と背中から声があった。
 機械の複雑な音に消されて気付かなかったが、時折この事務所に出入りしている初老の紳士が立っていた。所長の古くからの友人ということだった。
 「これ、あなたへのプレゼント。気に入ってもらえると嬉しいんですが」
 そう言って、彼は小さな包みを、私のめくりかけの伝票の上に乗せた。他の社員に気付かれないようにという配慮からか、それは会社の封筒に入れられていた。
 突然のことに、私は彼の目を見つめた。見つめて、見つめられて、私の大きな目にたたえられないほどの涙があふれた。なぜかとても嬉しくて涙をおさえることができなかった。彼は私の耳もとで小さくささやいた。
 「涙がこぼれないうちに、おめでとう」
 機械室のドアが静かに閉められた。部屋に満ちた機械の音が、私の心のときめきを消していた。
 もう三十をいくつか超えてまだシングルの私が、あまり気にすることもなくなった今日が私の誕生日だった。でも、彼はどうして知っていたのだろう。
 昼休みに、近くに止めておいた私の軽乗用車の中で、その包みを開けてみた。真珠のネックレス。誕生石だというのに、私がまだ手にしたことのない真珠。私はそっと首にかけて、バックミラーにその姿を写してみた。真珠のあやしい光は雨の日が似合う。何度も何度もかけたりはずしたりを繰り返すうちに、その妖しい輝きに、私は何かに魅せられたように感じた。
 何事にも、いつも一歩ひいて考えてしまう私にも、今までにいくつかの小さな恋の物語はあったし、すすめられて何度かの見合いもした。しかし、「一歩ひいて」の私の消極的な態度は、恋を実らせることもなく、今日までが過ぎた。
 でも、その日から、年が三十以上も離れているこの初老の紳士に、ほのかな暖かさを抱くようになった。恋心ではない。何か大きな愛で遠くから見つめてくれているようで、私には彼の存在が大きな安心感となって心に広がっていった。だから、「お食事でも」という誘いに、私は喜んで応じた。
 私は彼に「何で私に、どうして?」と問いつめるように言ってしまった。
 「別に理由はないけれど」とはいいながら、彼は静かに語り始めた。酔いが心を開いていったのだろう。
 「信本さん。あなたは、僕の五十年前の学生時代の初恋の人にそっくり。だから、このプレゼントを贈ることで、遠い青春時代の淡い恋を思い出して懐かしんでいるの。負担に思わないで」
 彼は私の横顔をいとおしむように見つめながら、若い頃の恋の経緯を静かに語った。
 「それに、いつだってひかえめなところも同じ。だから、僕らの恋は遠い日の花火に終わってしまった」
 「信本さん。コマーシャルではないけど、一歩前へ。僕が背中を押してあげるから。幸せは自分でつかまなきゃ」
 彼は私の胸の真珠の玉を人差し指で軽くつついていった。
 「真珠は星の雫。海の妖精。だから何か大切な出会いがあるときは、この真珠のネクッレスを身に付けて行って。きっと一歩前へ出る勇気を与えてくれると思うよ。すべての生命は海から生まれた。だから真珠には美しさの裏に、愛を育てる力があるんだから。あなたの誕生石は真珠。僕の恋人との再会」
 この紳士とのデートは、その一度きりで終わった。
 しかし、この紳士の長い経験に基づく恋の理論は、私に真珠の力を信じさせるのに十分であった。それ以来、私は何かにつけて、この真珠のネックレスを身に付けるようになった。それからちょうど一年が過ぎた。
 平成九年六月十五日、私は姓も住所も変わります。少々遅い巣立ちでしたが、やっと幸せを自分でつかみました。
 真珠の力を信じた私。そして、その真珠を私に贈ってくれた初老の紳士。ありがとう。子供でも生まれたらお知らせしますから。長生きしてね。
 

(「パール・エッセイ集Vol.4」の作品より)






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