真珠パールエッセイ・私の真珠物語
  黒真珠のペンダント       飯田洋子

 長男の高校入学の日、私はしまっておいた黒真珠のペンダントで皺の目立ちだした首元を装った。いつの頃からか、このペンダントは、長男の晴れの日の舞台で身に付けると心に決めていた。
 本来私はイヤリングは好きだが、やせすぎて鎖骨の飛び出た首に、何かを付けるのは好きではなかった。
 だが黒真珠のペンダントだけは、わたしにとって特別だった。これは十数年前夫が四国に出張した折、黒の好きな私のために少ないポケットマネーで買ってきてくれた物で、私には婚約指輪より大切な意味があった。
 未熟さゆえ男の価値もわからず、上辺の格好の良さだけに憧れて居るような年ごろに夫と見合いをした私にとって、気まじめそうで背丈が私とあまり違わない夫は、意に染まぬ相手だった。しかし無口で誠実そうな夫の人柄を、父は一目で気に入った。
 嫌がる私に両親は、夫との結婚を勧めた。過保護で育った私は彼らに押し切られるようにして夫と結婚した。二十二才の時だった。夫は父の見込んだ通り、私のわがままや失敗を笑って許してくれる優しい人だった。
 二年後、私は長男を生んだ。医師のミスで逆子がわからず、難産の末生まれてきた長男は、産声もない仮死状態。予定日を過ぎて生まれたのに、二二八0グラムしかない低体重児だった。
 長男は首が据わるのも寝返りを打つのも遅く、一才の誕生日にやっとハイハイらしきものを始めた。一人で座れるようになったのもそのころだった。私は、出産時の酸欠による障害で「脳性麻痺」ではないかと疑った。
  保健婦さんに相談すると、肢体不自由児の施設を紹介してくれた。 施設には、大学病院の医師が定期的に来ていて、長男を診察したのもその先生だった。診断の前、私は長男は一生歩くことはないだろうと覚悟していた。結果は「発育遅滞児」だった。
 出産間際まで続いたつわりのせいで、長男は栄養状態が悪く、著しく発育を阻害されていたのだった。「たぶん、いつかは皆と同じくらいには成長できるでしょうが、それがいつとは言えない」といわれた。私は地獄から天国へ引き上げられたような気持ちがした。それから一年間、夫と私は診察や訓練のために施設に通った。
 長男は周りの同じ年齢の子供が走り回るころ、やっと四つ這いで這い始めた。二才近くになって立てるようにはなったが、骨が柔らかすぎて長く立っていられない。「このままだと、足が変形する」と言われ、長男の足に合わせた、補助と矯正の役目をする靴を作ってもらった。
 その靴は、一目で長男が普通の子供と違うと気付く、コルセットのような革製の編み上げブーツだった。
 言葉も遅く、体も極端に小さくて、二才なのに一才にも見えない長男。夫はそんな子供を私よりもかわいがった。手のかかる靴を自分で履かせて、人の目など気にもせず何処へでも連れて行った。
 少しでも早く歩けるようにと、暇を見つけては長男の手を引いて歩かせ、ちょっと手を放してみる。そして一歩でも歩けると「オー。すごいなあ。やったなあ。えらいなあ。」と力いっぱい長男を抱きしめてやる夫。
 私は、この人と結婚してよかったと思った。これ以上の人が何処にいるだろうかと思った。私がそんな気持ちに満たされているころ、このペンダントをもらった。
 長男は小学生の時スポーツや勉強について行けず、体も小さいしうまく話せな事もあって、いじめに遭った。中学では「擦れてないよね」「おとなしくって中学生に見えないね」とほかのお母さん方に言われた。
 彼の成績では高校は無理ではないかと思っていたが、少し遠方ではあるが県立の実業高校に入ることができた。朝七時に家を出る長男は私よりも早く起き、一日も休まず遅刻をしたこともない。
 相変わらず、勉強やスポーツは苦手なままだが、「明日は早く出るけど、自分でパンを食べて行くから起きなくていいよ」などと親を気遣うまでに成長した。
 幼いころから目立って大きく、スポーツも勉強も得意で、今では自分よりもはるかに身長の伸びた四才下お弟を、優しい目で誇らしげに見る長男。
 彼も夫のような父親になるのだろうか。
 いつかそんな日が来たら私は、年老いたシワシワの首をこの黒真珠のペンダントで飾るだろう。
 
(「パール・エッセイ集Vol.2」の作品より)




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