真珠パールエッセイ・私の真珠物語
  私の真珠物語       大澤美奈子

 幼い日に読んだ童話の中で、今も心に深く残っているのがアンデルセンの「人魚姫」だ。人間の王子に恋をして、魔法使いに美しい声とひきかえに薬をもらい、人間になることを選んだ人魚姫。王子の愛を得られずに、胸が張り裂け、海の泡となって消えていった人魚姫。……その人魚姫が、初めて海の上の世界を見に行く時身につけたのが、真珠の冠だった。でも、その冠以上に、人魚姫の流す涙が、哀しみを封じ込めた美しい真珠となって、幼い私の心に刻まれた。そして、真珠への思いはその後も静かに醸成され、私の胸の奥を占める大切なものとなった。
 東京の大学を卒業後、私は教員として、山奥の小さな中学校に赴任した。初めて学校を訪れた春休みのある日、職員室で一人、掲示物の張り替えをしていたのがM先生だった。ジーンズにボタンダウンのシャツを腕まくりし、脚立にまたがって微笑むその人は「先生」のイメージから遠く、どんな挨拶をしたら良いのか一瞬迷ったが、
「やあ、いらっしゃい。どんな人が来るのかなあと、心待ちにしていたんですよ」
と先に声をかけられ、緊張の糸はゆるやかにほぐれていった。
 桜の咲く校庭で、子供達と初めて対面し、私の教員生活がスタートした。子供達はすてきだった。良く笑い、子犬のようにじゃれあって遊び、けんかもし、新米先生をかまい羽目をはずす、健康なエネルギーに溢れていた。
 その彼らと向き合って、彼らをひきつける、魅力的な授業のできない自分がつらかった。言葉は教室を浮遊し、留まる場所を知らず、シャボン玉のように消えた。言葉の届かない空しさを、初めて知ったような気がした。それは、一番伝えたい思いを、言葉にできない人魚姫のもどかしさにも似ていた。
 一方で、山の自然にも圧倒された。ヤマブキ、タンポポと、まず鮮やかな黄色が花開くと春の訪れ。一緒に登ると、子供達はあっという間に山菜を一抱えも採ってきた。ワラビ、ゼンマイ、フキ……。みんな、ここでその味を覚えた。川では、男の子たちが、泳いでいるハヤをヤスで突いて捕る。夏のホタル狩り、秋のクルミ拾い。子供達にとっては当たり前の自然であり生活であったが、街で育った私には初めて足を踏み入れる、童話の世界を生きているような喜びがあった。そしてここでは、どの子もまぶしいくらい輝いていた。
 でも、その子供達が、生き生きと学ぶ場所を作る教師として、私の存在はあまりに非力に思えた。学校のすぐそばに下宿していた私は、裏の河原の大きな岩に腰掛け、川のせせらぎを聞きながら、膝を抱えては、よく涙をこぼした。そんな私を「教師の卵というより、人間の卵だなあ」などと言いながら、いつもさりげなく支えてくれたのが、M先生だった。
「背伸びしなくても、素直に思いきりぶつかっていけば、子供達はついてくる。今だって十分子供達は君を愛しているよ」
……若さゆえの悩みを受けとめ「君は君のままでいいんだよ」というメッセージを伝え続けてくれた。仕事に迷い、疲れ、打ちのめされていた時、「大好きな映画があるんだ」と独り言のように話し始め、「今日は今日のことだけを考えよう。泣くのは明日にして。……I'll cry tomorrow」という言葉(セリフ)を教えてくれた。そんなふうに助けられ、私は泣きながらも、少しずつ大人になっていった。
 初めての教え子を送り出す卒業式。私は三年間、少しずつ貯めた自分のお金で、初めて大きな買い物をした。あこがれの真珠の首飾りだった。黒いドレスに真珠の首飾りをつけた私に、M先生は
「真珠が、君にはよく似合うよ」
と言ってくれた。真珠は、二重の意味で私の大切な宝になった。そんなM先生とも職場が変わり、会うことはまれになったが、つらい時には「I'll cry tomorrow」とつぶやくのが私の癖になっていた。
 お会いする機会も遠のき、数年経った頃、M先生が入院した。ガンであった。病床でもあの笑顔と包みこむような優しさは、少しも変わっていなかった。……数ヶ月後、亡くなったM先生との最後のお別れをした。「一番似合う」と言われた真珠をつけて。遺影を見つめながら、本当は、M先生が真珠のような人だったのだ、という思いが込み上げてきた。
 真珠がアコヤガイの体内の異物を包みこんで、長い時間をかけてできあがったものと知ったのは、人魚姫を知ってからずっと後になってからだ。人も、真珠のように痛みを核にして、その傷を幾重にも幾重にも覆いながら、美しいものを生み出せたらどんなにすてきだろう。心の中の痛みを一つ一つ包んで、私の真珠を作っていこう。その真珠を丁寧につないで、長い長い首飾りを作ろう。そうして、その静かな光りで、暖かく人を包んであげられるようになれたら、と思う。M先生のように……。それが、今の私の願いである。
 
(「パール・エッセイ集Vol.3」の作品より)








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