真珠パールエッセイ・私の真珠物語
  バレンタインのパール       松下 径子

 彼と、ばったり会ったのだ。
 真冬の駅のホームだった。
 朝の東京行き新幹線のホームは、出張らしい男性たちで混雑していた。
 人波に何気なく目をやっていると、焦げ茶のコート姿の彼が、真っ直ぐ私の方に向かって歩いて来る。
 私が、結婚したいとはじめて思った人。
 切ない願いも叶わないまま、月日は彼を遠い思い出の地に置いたまま過ぎていた。
 同じ会社に、同じ電車で通勤していたあの頃。彼の仕事熱心で、真面目な優しい人柄に強く惹かれ、人生を共に歩みたいと心から願っていた日々。
 温和で無口な彼と、引っ込み思案な私。二人だけで会うきっかけなどとてもつくれず、片思いの状態は二年も続いていた。
 当時は、女性から愛を告白したり、デートに誘うなぞ、はしたないような気風があった。でも、彼と二人だけの幸せな時を持ちたい思いが募る一方の私は、間もなく近づくバレンタインデーを利用しようと思いついた。
 その頃、バレンタインの話題は、雑誌などで様々に紹介され、若い女性の胸をときめかせる特別の日となりつつあった。
 この方法なら女性からでも、想いを伝えることが出来る。
 そして、これ程深く、真剣な愛の告白にふさわしい贈り物は、パールより他にない。デパートで、淡く虹色に輝く大きなパールの付いた、銀色のタイピンを見付けた時の、沸き立つような喜びを、今も忘れない。
 バレンタインデーの朝、通勤の人たちに気付かれないよう、プレゼントの小箱を茶封筒に入れ、電車から降りようとする彼にそっと渡した。
 彼は私に顔を向け、「ありがとう」と、ほほえみ受け取った。
 二、三日後、通勤電車の中だったろうか。
「日曜日に映画を観に行こう」
と声を掛けられた。
 不安な重苦しい気持ちから、ぱっと解放され、まわりのすべてが明るく、さわやかな色に染まった。
 待ち遠しかった日曜日。映画を観た後、駅近くのビルの八階にある喫茶店でコーヒーをいただいた。どんな話をしたのだろうか。会社のことや、お互いの家族のことを話したようにも思うが、あまり覚えていない。
 だがただひとつ、どうしても忘れられないことがあった。
 私は行動した。願いは叶ったのだ。でも、今日だけのデートで終わってしまうのは嫌だ。
 コーヒーを飲みながらも、これから先のことについて、彼がどのように考えているのかが、気掛かりで落ち着かなかった。
「これから、どうなるの?」
勇気を出して、尋ねた。彼は、期待通りに答えた。
「明日、退社時間後の五時十五分頃、事務所の前で待っていてね。」
 ああ、これから恋を育てる日々が始まるのだ。ほっとした思いが、けだるい感じで私を包んだ。
 翌日、指定された場所で私は待った。
 待てども、待てども、彼は現れなかった。
 あの真面目で堅実そうなあの人が、約束を破った。このつきつけられた事実が、私の気持ちに対する答なのだ。
 人を信じることも、将来を幸せに築いて行こうとする力も、若い女性のもつ夢も、何もかもがガタガタと崩れ去った。
 「なぜ、来て下さらなかったの?」と問う勇気さえ失われていた。
 捨てきれない心を無理に押しやり、それでも生きてゆくべき光を求めて、その秋、会社から逃げるように、見合い結婚をした。
 ……今……目の前に彼がいる。
 あの頃と少しも変わっていない彼が……。
 私はひどく痩せてしまったので、名前を名乗った。
「覚えてらっしゃる?」
「覚えてるよ」
彼は驚きの声で答えた。そして、人混みの中にもかかわらず、会社の様子を、昔のままの静かな優しい語り口で話して下さった。
 私は二十五年の間抱えていた疑問を、思いきって言葉にした。
「あの時約束したのに、どうして来て下さらなかったの?」
「えっ、約束って?全然覚えていないよ」
……そんな馬鹿な……。そんなひどいことがあるのだろうか……。
「では、バレンタインの贈り物の、パールのタイピンのことは?」
「それはよく覚えているよ。今でも大切にしてあるよ」
「バレンタインが、女性からの愛の告白ってことはもちろん御存知だったでしょ?」
「いや、ボク、バレンタインのことはなんにも知らなかったんだよ」
 バレンタインデーという名称も、それが愛の告白だと言うことも知らない彼に、私は自分のすべてを賭けてしまったのだった。
 生き方にも、恋にも未熟な、二十五才の私だった。
 彼が覚えていないと言う、あの喫茶店での「約束」は、幻だったのか?
 熱い想いと、幸せを託したパール。
 あの日美しく輝いていた虹色のパールは、本当に今も彼の机の引き出しの中で、変わらぬ輝きを放っているのだろうか。
 
(「パール・エッセイ集Vol.3」の作品より)








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