真珠パールエッセイ・私の真珠物語
  真珠のカフスボタン       酒井 弘子

 晴れの日が幾日も続くと、気持ちまでも乾ききる。そんな時、しとど降る雨の日が訪れると、心が湿り気をもらって落ち着いてくる。
 蜘蛛の巣に珠玉の水滴がかかり、揺れ動くさまなどを見つけると、ただ自然の恵みの美しさに圧倒されて、小一時間も立ちすくんでしまう。
 雨をたっぷりもらった木々は、鮮やかな緑で香り立つ。
 こんな日は心に余裕ができて、押入れから小布を出してミシンを踏んでみたり、土蔵に入って思い出探しをする日である。
 その日も待ちわびた雨の日であった。例によって土蔵に入り、古い品をあれやこれやと物色した。土蔵の入り口の所には、カビの生えた古タンス、鏡台、本箱などが雑然と置いてあり、天井からは軍隊の水筒などもぶらさがっている。みんな手で持つと、音を立てて壊れるようなガラクタ物であるが、ときどきその中に宝石のような思い出が埋もれている。
 その日もガラクタの中で見つけたのは、父の手文庫であった。私は父が手文庫を残していたことも、その中にこんな大きな思い出が封じ込められていたことも知らなかった。手文庫の中には、父の中国へ出征したときの母の手紙が詰まっていて、奥底からコロンと音がして、小さな真珠のついたカフスボタンの片割れがころがり出てきた。随分手の中で握りしめたりころがしたりしたのだろう。金属の部分が黄色く垢で汚れ、変色していた。これは父と母が片割れずつ持って、身は海を隔てても心は同じ、お互いを思い、子を思い、家族を思った愛の証であった。
 異国で戦う父を愛した母の日々が、五十年振りに私の目の前に甦ったのである。
 中学生の頃、母は父のことをよく冗談まじりに話してくれたものである。母の頬がほんのり紅さすのを見て、私なりの父親像を描いたものであった。
 お父さんとお母さんは従兄妹同士、まあ馴れ合い結婚ね。でもあなたが生まれてからというもの、お父さんはそりゃ大切な人になったわよ。お父さんが出征する時に、宝物の真珠のカフスボタンを片方ずつ持ってね。
 苦しいときや辛いときはこのカフスボタンをお互いだと思って握りしめよう、と誓い合ったものよ。あなたが二才の時、お父さんは出征した。そりゃ苦しくて淋しくて。私が泣くと決まってあなたが夜泣きするの。カフスボタンを力いっぱい握りしめたものよ。お父さんは天津で戦って上海で病気になった。お父さんだって最前線で弾をよけながら、カフスボタンを壊れるほど握りしめたんだって。入院中は、涙で濡らしたりしてね。
 田舎者の母には、宝石は不要であった。野良仕事の合間に、月一度町へ買物に出かけるだけの母には、宝石といえば片割れの真珠のカフスボタンと珊瑚の髪飾りだけであった。
 母の父宛の手紙には、「愛する」という言葉がひとことも書かれていない。
 検閲印を押された軍事郵便の一通には「異国でお働きの貴方、出征の日、いとし子を何度もふり返り見つめながら、笑顔で去っていった貴方。今日は出征兵士の家から軍歌が流れてきます。何と悲しい歌でしょう。寂しさで涙がこぼれます。
 子どもはすくすく成長しています。家族も元気、ご安心下さい。私は銃後をしっかり守ります。貴方様の武運長久だけを」と異国の父の許へ飛んで行きたい気持ちをおさえながら書いた、悲愴感あふれるものがあった。戦争という名で否応なしに引き裂かれ、それを名誉と書かなければならなかった時代を垣間見て、心が凍てつく思いがした。
 父は終戦を待たずして死んだ。母はそれから十年後に逝った。母からは愛の証の片割れのカフスボタンが一対になって、父の腕に飾られた話は聞いていない。
 あの終戦間際の逼迫した日々の中で、戦病者で役立たずの父の姿に負い目を感じ、せめてこの愛の日の記憶を葬ることで、世間の、父への責めを受け止めたのだろう。
 私はこの雨の日、五十年振りに父の手文庫で母の手紙を発見して、私がどんなに大切な愛の絆であったかを知った。どの手紙にも必ず私の成長の様子が書いてあり、慈しむ喜びにあふれていた。両親の命のゆらめきの中で成長した私こそ、二人の真珠の玉であった。
 片割れの父の持っていたカフスボタンの真珠は、今も朝焼けの空のように、ピンク色に輝く。それはひそかに、まろやかに、涙色して。
 いつの日にか両親の形見を持って、父が砲火にまみれながらも愛した、中国へ行きたい。セピア色になった、父の天津や上海での写真はどれも笑顔ばかりだ。
 今、母が生きていて、父の中国の大自然に接することができたら、感激の涙を流しながらきっとこう言うだろう。
 「お父さんが愛した第二の古里だもの。ほら見てごらん。山も里も真珠の輝きだよ」
 
(「パール・エッセイ集Vol.1」優秀賞の作品より)








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