真珠パールエッセイ・私の真珠物語
  〜「私の真珠物語 パール・エッセイ集VOL.3」 最優秀賞〜
◆老婦人の真珠     橘川 文夏

画像  ホテルの化粧室に、右半身が不自由な老婦人が、杖にすがってやっと歩いて入ってきた。付き添いの人がいないことが不思議なくらいの歩き方だ。化粧台の前にやっと腰かけたが、ポシェットが開けられない。隣にいた私が頼まれて開ける。赤いビロードの袋を左手で出す老婦人。動かない右手の指は、空気と時間を握っているようだ。私は思いきって尋ねた。
「何かお手伝いすることがありますか?」
「ありがとう。お願いできる?この袋からネックレスを出して、かけて下さる?」
 老婦人の杖が倒れた。私が拾う。鏡の台にうまくかからない杖。老婦人の後方の壁にたてかけた私に、強い叱責の声。
「私の大切な足を、また私の手の届かない所に置いて。私をまた歩けなくする気なの?」
びっくりしている私に、今度はやさしい声。
「ごめんなさい。ごめんなさい。つい嫁とまちがえてしまって。ご親切なあなたに、何ということを言ってしまったのでしょう、私。いえ、いつも嫁が、私の大切な杖を、私の手の届かない所に置くんですの。その杖がないと、私は立つこともできないのに。私が自由に歩くことをいやがっているんですの、嫁は…。あらっ、ごめんなさい。嫁の悪口まで言ってしまって…」
「いいえ…。じゃ、ネックレスをかけます。杖は、ちゃんと渡しますから…」
 私は、赤いビロードの袋を開けた。サァーと光が舞いおりたような美しさだ。大きな真珠。輝く真珠。高校生の私にだってわかる、高価そうなネックレス。ネックレスを落とさないように、慎重に老婦人の首にかけた。留め具をちゃんと留めたかどうかも確かめた。上品な老婦人によく似合う。着ている白いレースの服にもピッタリ。鏡の中の老婦人は笑顔。
「ワァー、すてきですねえ…」
と、思わず声をあげる私。笑顔のままの老婦人。
「今日で最後なのよ。このネックレスを私がするのは。主人が買ってくれた形見なんですけれど、今日、嫁にプレゼントしますの。これから嫁の誕生日会がありますので。もう、今の私にはプレゼントを買いに行くことさえできないんですの。私はもうすぐ死ぬのですから、私が生きているうちに良い物は、みんなに分けようと思ってね。この真珠は、私が一番好きな物なの。だから一番世話になっている嫁に…。でもね、私のつまらない意地があってね、嫁にあげるまでは嫁にさわらせたくなかったの。だから私、自分ではできないとわかっているのに嫁にしてもらわず、こうして、他人のあなたのお手をわずらわしているのです。ごめんなさい。でもよかったわ。あなたのようなかわいい人に、最後の日のネックレスをかけてもらって。主人もうれしがっていると思うわ。主人は、女の子がほしかったのよ。でも、男の子一人しかできなかったの。嫁をもらうのを楽しみにしていたのに、嫁をもらう前に、主人は亡くなってしまったの。だからせめて、主人が買ってくれたこの真珠を嫁にね…。もう決めたのに…。まだ、嫁にさわらせたくないなんて、私もいやあね…。つまらない意地なのにねえ。」
 老婦人は、話をしながら左手で髪をとかす。左手でゆっくり服をたたき、大切そうに真珠のネックレスをなでる。ポシェットのチャックを私がしめて渡す。
「ありがとうございます。本当にありがとう。あなたのおかげで、嫁に気もち良く、この真珠をプレゼントできそうよ。ありがとう」
 杖を老婦人の左手に握らせる。動かない右側を支えて立たせたが、うまく重心がとれないらしくよろめく。心配になった私。
画像 「お部屋まで送りましょうか?」
「ありがとう。一回すわってしまうと、次がうまく歩けなくて。ごめんなさいね、七階なの。少しするとまた一人で歩けるんですの」
 老婦人を支えて化粧室を出た。よろめく老婦人とゆっくり歩いていると、背後から大声。
「お母様っ、一人で出歩かれては困ります。ころんだりしたらどうするんですか。あれほど、一人じゃ歩かないで下さいって言っているのに。みんなで探しまわっていたんですよ」
車椅子を押した若い女性が、老婦人の手を取り、上手に車椅子へ。いつのまにか、杖は車椅子の後方に。なるほど、一人じゃ取れない位置だ。老婦人から笑顔が消え、強い言葉。
「ゆうこさん。私、一人で歩けます。このお嬢さんと散歩してましたのよ。よけいなことしないで下さい。誕生日会までにはまだ時間がありますでしょ。歩いて行きますから…」
「お母様、お願いですから体を大切にして下さい。せっかく良くなられたのに、無理しますとまた寝たきりになってしまいます。今度ころんだら、歩くのは無理になってしまいます。歩くのは一人じゃなく、私を呼んで下さい」
 やさしそうな良いお嫁さんみたいだ。私に丁寧にお礼を言うと、ゆうこさんは、老婦人を乗せた車椅子を、ゆっくり、やさしく押していった。


愛媛県漁連 真珠課 愛媛県漁協 本所 真珠課
〒790-0002 愛媛県松山市二番町四丁目6番地2
TEL:089-933-5117 FAX:089-921-3964
フリーダイヤル:0120-42-5130
E-mail:m-shinju@ehimegyoren.or.jp

愛媛県水産会館